かたぴ
「粘着や誹謗中傷といったアンチ活動がやめられない」
「こんなことしても何にもならないのは分かってる」
この記事ではこのような疑問にお答えします。
結論から言うと、粘着や誹謗中傷といった言葉の暴力に頼ってると、どんどん抜け出せなくなります。
取り返しのつかないところまで行ってしまう前に。
また、アンチ活動をしたことがない人がアンチになって人生を停滞させないように。
そこでこの記事では、暴力に頼るというのがいかに楽な行動であるがゆえに危険なのかを見ていきましょう。
そもそも暴力とは?
暴力は人間の意思疎通の手段のひとつでしかない
まずは暴力という言葉の定義から。
ここでいう暴力というのは、何も殴る蹴る叩くといった物理的な暴力だけではありません。
粘着や誹謗中傷といった言葉による嫌がらせもまた暴力なのです。
ただ、現実世界で人間が全員、毎日暴力に頼って生きているわけではないですよね?
粘着や誹謗中傷が日課になってる人なんてごく一部でしかないはずです。
もし全員が暴力しか使わない世界だったら阿鼻叫喚の世界になってしまいますからね。
このことからも分かる通り、暴力は人間の意思疎通の手段のひとつでしかないんですよ。
人間には言語やジェスチャーという意思疎通の手段があるのですから。
暴力の例
暴力というと殴る蹴る叩くのイメージが強いですが、以下のような行為も暴力です。
- 大きな声で怒鳴る
- 物を投げる
- 机を手で叩く
- 汚い言葉で罵る
- 相手へ嫌がらせをする
ただ、こういった行為に頼らずともこの人間社会は生きていけるんです。
繰り返しになりますが、暴力はあくまでも意思疎通の手段のひとつでしかありません。
かたぴ
対人関係におけるトラブルは生きてる限り避けられない
しかし、言語やジェスチャーによる意思疎通の手段をもってしても、対人関係におけるトラブルからは避けられません。
人間一人で生きてるわけではありませんから、どうしたって誰かと関わることになります。
違う人間ですから、自分の思い通りにならないことなんて多々あるわけで。
- 思っていることを上手く伝えられない
- 相手がなかなか理解してくれない
- どうしても考えや価値観が異なる人が出てくる
こういったこと、みなさんも経験あるはずです。
もちろん自分もありますよ。
かたぴ
暴力に頼ってると中毒になってしまう
人間関係の大前提として、他人は変えられません。
しかし、暴力に頼れば、いとも簡単に他人を変えることができたり、他人に影響を与えたりすることができてしまいます。
対人関係にしびれを切らした人が暴力に頼りだす
先ほども、対人関係におけるトラブルからは避けられないと書きました。
意思疎通するには時としてコストや労力がかかることもあります。
違う考え方や価値観のある人を認めるという広い心も持たなきゃいけません。
ただ、どうしても今すぐに言うことを聞かせてやりたい。
考え方や価値観の違う人が許せないので、考えを改めさせてやりたい。
そんな風にしびれを切らしてしまった人が取る手段。
それが冒頭でも挙げた暴力なのです。
暴力は安直なコミュニケーション手段
ここで、自分の愛読書である幸せになる勇気の一文を紹介しましょう。
暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるを得ません。
引用:岸見一郎・古賀史健(2016) 幸せになる勇気 ダイヤモンド社
相手がどう考えていようが、どんな価値観だろうが、暴力に頼ってしまえば関係なくなってしまう。
だからこそ、暴力はコストが低く安直なコミュニケーション手段なのです。
暴力に頼るような人間であってはいけない
暴力に頼りだすと、暴力以外の意思疎通手段を取るのがどんどん面倒くさくなってしまいます。
相手の話を聴くことも、相手の考えや価値観を理解しようとすることも、自分を高めるための努力をすることも、全部やりたくなくなるでしょう。
これはアンチに限った話じゃありません。
家庭内のDVやネグレクトといった行為も全部同様です。
簡単で楽だからこそ危ないのです。
薬物中毒者が辛くなったら覚醒剤に頼ってしまうのと構造は同じですよね。
ずっと暴力に頼ってると抜け出せなくなりますよ。
そうなる前に早く戻ってきてください。
かたぴ
膨大な人と繋がれるネット世界
ネットのおかげで、遠くにいる人や普段の生活で関わりがない人とも気軽に繋がれるようになりました。
ネットがない時代と比べたらもはや比較できないほどです。
その一方で、ネットによってアンチを生み出しやすい環境ができたというのも事実です。
暴力に頼る思考に染まった人がネット上でアンチになる
暴力に頼るとはいっても、現実世界で暴力なんか振るったらすぐに警察に捕まります。
ニュースなどで報道されてしまったら自分の顔や名前まで全国に知れ渡るでしょう。
でも、今のままでは自分が満たされない。
どこかに自分の気持ちをぶつけないとイライラがおさまらない。
かといって努力したりリスクを取って行動したりする気もない。
まさに板挟みの状態。
そんな状態に陥って、暴力に頼る思考に染まった人が、暴力によってスカッとしたいとか、なるべくバレないように暴力を振るいたいと思ったらどうなると思いますか?
答えは簡単です。
ネット上でアンチと化します。
ネット上なら自分の顔も見えないし、匿名でやり取りすることができますよね。
安全な場所から石を投げ続けることができてしまいます(IPアドレスが割れたらバレるので厳密には安全ではないのですが)
アンチにとってはこんな心地の良い環境は他にないでしょう。
現実で気軽に振るえない暴力をネット上で振るうことができるのですから。
ずっとアンチ対象を探し続けることになる
仮に、あるアンチ対象がメンタルを病んでしまって、ネット上から消えてしまったり活動をやめたりしてしまったとしましょう。
そこでアンチ自身も粘着や誹謗中傷が終われば良いんですが、現実はそう簡単にもいきません。
一度アンチ活動してしまった以上、そこに快楽を覚えてしまっているからです。
アンチからしたら、「俺のおかげであいつを変えることができた!」とか「やっぱりあの女は間違っていた!私が正しい!」のような勝利感すら覚えそうです。
そんな経験をしてしまったら、また次も快楽を求めて、他のアンチ対象を探す旅が始まります。
ネット上という広い海には膨大な人が漂っているのですから。
かたぴ
アンチ活動なんて誰にでもできてしまう
炎上覚悟で言いますが、他人を中傷するするバカは破滅します。
①他人のあら探しは小学生でもできる
②批判しても、自分は高まらない
③批判することで、自分を縛る
④誰でもできるから差別化できない
つまり低レベル。マジレスするとこれじゃ一生、社畜依存症のまま。そろそろ抜け出しませんか?— イケハヤ@ビットコイン大好き (@IHayato) May 12, 2019
もし「アンチのように粘着したり誹謗中傷したりしてみて」と言われたら自分でもすぐにできますよ。
自分にとって手の届かないような人(気に食わない人)を適当に見つけてきて、嫌がらせをしたり、根拠のない噂を立てたり、晒し上げにしたりするだけです。
でも普段の自分はアンチ活動なんてやりません。
できないんじゃなくて、やる必要がないんです。
ここまで紹介してきた暴力の中毒性を知ってますし、他人を変えられないことも分かってるし、そもそも他人を変える気もないですしね。
誰にでもできてしまうことに時間や労力を割くなら、少しでも自分と向き合って努力し続ける。
そうして自分ならではの強みを発揮して、他の誰かへ活かす。
こういう生き方のほうがよっぽど健全だと思いませんか?
かたぴ
まとめ
- 暴力は人間の意思疎通の手段のひとつでしかない
- 対人関係におけるトラブルは生きてる限り避けられない
- 対人関係にしびれを切らした人が暴力に頼りだす
- 暴力に頼る思考に染まった人がネット上でアンチになる
- アンチ活動なんて誰にでもできてしまうので価値がない
以上、粘着や誹謗中傷といった言葉の暴力に頼ると中毒になって止められなくなるという話をしました。
暴力を止めるなら早いほうがいいですね。
時間が経てば経つほど暴力という毒に冒されてしまい、取り返しのつかないことになります。
自分は誰かを無理に変えようとは思いません。
その人が変わろうが変わらなかろうが、自分の人生にはまったく関係がないからです。
でも、暴力の中毒性について思っていることや考えていることはありったけ解説したつもり。
将来を見据えて今変わるのか?
それとも暴力という毒に死ぬまで苦しみ続けるのか?
変わるかどうかの決断はあなたに委ねます。